森鴎外の息子「類」へ贈るあたたかな祝福の物語 父と子のシンパシーも〈週刊朝日〉(AERA dot.)

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森鴎外の息子「類」へ贈るあたたかな祝福の物語 父と子のシンパシーも〈週刊朝日〉(AERA dot.)
[MARKOVE] 文芸評論家の縄田一男さんが選んだ「今週の一冊」。今回は『類』(朝井まかて著、集英社 1900円・税抜き)。

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 この一巻は、鴎外の末子である類が少年時代、父が丹精した花々で彩られた庭[/MARKOVE]

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森鴎外の息子 類 へ贈るあたたかな祝福の物語

同じ年頃の少年たちは「誰も相手にしてくれなかった」類にとって、「ハヴァナの匂いのする父の躰は、類の世界を保証していた」と作者は記している。

人類の祖先の二足歩行や道具を使うきっかけは? 宇宙探査に乗り出したそのわけは? 人工知能との共生は可能か? 登場する石板は何? 人類の進化の先は?

爽やかな天気です。フェリーからの桜島は、割とくっきり見えています。今日の日中は24度、Tシャツでも大丈夫な一日です。こんな日は、身も心も軽くしてくれます長い出張から帰りますと、机の上は書類が積まれ、春の雪崩をおこしていますf^_^;私も含めいろいろと雑用に追われて、中々片付きません!

ところで類とは奇妙な名である。一説によると、鴎外の子供たちは全員が当時としては異色の名前で、これはドイツに留学した鴎外=森林太郎という名前が外国人にとって発音しにくくて苦労したので、世界に通用する名前にしようとしたからだという。

綺麗(きれい)に片附けた机の上には、読みさして置いて出たマアテルリンクの青い鳥が一冊ある。その上に葉書が一枚乗っている。ふと明日箱根へ立つ人の便りかと思って、手に取る時何がなしに動悸(どうき)がしたがそうでは無かった。差出人は大村であった。「明日参上いたすべく候(そうろう)に付、外(ほか)に御用事なくば、御待下されたく候。尤(もっと)も当方も用事にては無之(これなく)候」としてある。これだけの文章にも、どこやら大村らしい処があると感じた純一は、独り微笑(ほほえ)んで葉書を机の下にある、針金で編んだ書類入れに入れた。これは純一が神保町(じんぼうちょう)の停留場(ば)の傍(わき)で、ふいと見附けて買ったのである。

孤独で淋しがり屋、そして甘えん坊の太陽王──もしかして類は生涯、父のつくった庭を出たくなかったのではあるまいか。

この一巻は、鴎外の末子である類が少年時代、父が丹精した花々で彩られた庭を逍遥しながら、「僕、いい子になります」、だからパッパ(父親のこと)、かえってきてと、不在の父の姿を求める場面からはじまる。

そして、ここからは恐らく私の妄想に近いのだが、類をアルファベットで書くと、“Louis”──これは英語ではなく、フランス語であろう。となると、類=ルイはブルボン王朝の王の名で、鴎外が最も偉大な王に模して名前をつけたとすれば、ブルボン王朝の最盛期を招来した太陽王ルイ14世ではないのか。

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情報(典拠と類型)という点では、近代(などという限定を加える必要もないかも知れない)日本においては、柳田國男と南方熊楠ほど大量に把握していた個人は、ちょっと他にいないのではないか、と思う。もちろん、情報の領域に一定の限界はあるのだけれど、この二人の著作集を眺めると、よくまあ個人でこれだけの情報を集めたものだと感心してしまう。集めるだけではない。それらを互いに関連付けて、しかるべき位置付けやまとまりを与えているところがすごい。

最近、学問とは煎じ詰めれば、典拠と類型をどれだけ正確にかつ大量に指摘することができるか、に尽きるのではないか、などと思うことがある。それが真理だ、と悟るところまでは行っていないし、自分があずかり知らない他の専門領域にも言えることなのかも分からない。しかし、どうもそんな気がする。単純化して言えば、論理より情報なんじゃないか、ということ。学問に論理などいらない、ということではなくて、確実な情報を大量に仕込んでいれば、論理は後から付いてくる、とでも言ったらいいだろうか。

印象に残っているものの中から1つ。人間の新生児と聞いてどんな様子を想像するか。生まれてすぐ立ち上がり仲間のあとを追うゾウやウシ、誕生第1日目からさまざまな運動能力のあるサルと違い、あまりにも弱々しく未成熟な姿が浮かぶ。母親の助けなしには1日も生きていけない。これは高等哺乳類の中にあって例外的な人間特有の状態である。なぜか? 詳細は本書に譲るが、人間は長い進化の過程で、他の高等な哺乳類が誕生時に実現している発育状態にたどり着く約1年前に子供を体外に出し、親の極めて力強い保護下で育てていく独特な繁殖プロセスを採っているのである。そして子供は生後1歳前後でようやく歩き始め、大人と同じものを食べられるようになる。1歳に満たぬ子供は、母親の体内にいてもおかしくないほど、弱々しい存在なのである。そう考えると、乳幼児を常にそばに置いて養護したいと思う親の気持ちは、まさに本能に根付いたものである。

文芸評論家の縄田一男さんが選んだ「今週の一冊」。今回は『類』(朝井まかて著、集英社 1900円・税抜き)。

純一はふと気が附いて、自分で自分を嘲って、又 Huysmans(ヒュイスマンス) を読み出した。Durtal(ドュルタル) という主人公が文芸家として旅に疲れた人なら、自分はまだ途(みち)に上らない人である。ドュルタルは現世界に愛想(あいそ)をつかして、いっその事カトリック教に身を投じようかと思っては、幾度(いくたび)かその「空虚に向っての飛躍」を敢てしないで、袋町から踵(くびす)を旋(めぐ)らして帰るのである。それがなぜ愛想をつかしたかと思うと、実に馬鹿らしい。現世界は奇蹟の多きに堪(た)えない。金なんぞも大いなる奇蹟である。何か為事をしようと思っている人の手には金がない。金のある人は何も出来ない。富人が金を得れば、悪業(あくぎょう)が増長する。貧人が金を得れば堕落の梯(はしご)を降(くだ)って行(ゆ)く。金が集まって資本になると、個人を禍(わざわい)するものが一変して人類を禍するものになる。千万の人はこれがために餓死して、世界はその前に跪(ひざまず)く。これが悪魔の業(わざ)でないなら、不可思議であろう。奇蹟であろう。この奇蹟を信ぜざることを得ないとなれば、三位一体(さんみいったい)のドグマも信ぜられない筈がなくなると云うのである。

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