「自分はベッドだ(汗)」子猫が肩の上で寝落ちしたときの飼い主の葛藤に共感(ねこのきもち WEB MAGAZINE)

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「自分はベッドだ(汗)」子猫が肩の上で寝落ちしたときの飼い主の葛藤に共感(ねこのきもち WEB MAGAZINE)
[MARKOVE]遊び疲れてしまったり、はしゃぎすぎてしまったり…子猫って、いろんな場所で突然寝落ちすることがありますよね。Twitterユーザー@iamcat_luluさんの愛猫・ルルちゃん(♀・0才/シンガプー[/MARKOVE]
[紹介元] ねこのきもち WEB MAGAZINE – Yahoo!ニュース 「自分はベッドだ(汗)」子猫が肩の上で寝落ちしたときの飼い主の葛藤に共感(ねこのきもち WEB MAGAZINE)

自分はベッドだ 汗 子猫が肩の上で寝落ちしたときの飼い主の葛藤に共感

【画像】飼い主さんの肩で寝落ちする猫・ルルちゃんの素顔肩らへんでモゾモゾしてるなと思ったら…そんなところで…!とある日、「肩らへんでモゾモゾしてるな」と感じた飼い主さんは、自分の肩を見てみると…なんとそこには、ルルちゃんの姿が! 飼い主さんの温もりを感じていたら安心したのか、ルルちゃんは肩に乗ったまま寝てしまったようです。

将来のではなくて、寝ているときにみる方です。みなさんは、定番というか同じ内容で複数回みる夢はあるでしょうか。だいたいは夢をみないか、起きたときに忘れてしまうかだと思うので、何度もみた事を覚えているという点で、よろしくない内容のものが多いと思います。私の定番の夢は、大学の時の試験前日で、全く準備をしておらず、試験開始までに覚えきれないよ、と途方に暮れるというもの。大学を卒業してから10年以上たつのにあれな感じですが。少し前になりますが、ある掲示板でこの話題が出ていて、自分だけじゃないんだなーと少し安心。今回他に話題もなかったので告白してみました。ちなみに、夢占い・試験で検索したところ、【試験】試験準備が出来ていない…現在の厳しさを反映疲れているときにみる傾向がありますが、6年間、度重なるストレスにさらされた余韻かと思っています。ここ最近、途方に暮れるような状況ではないです、念のため。

この時期になると、大学生時代、忘年会で出し物をするように先輩から言われて頭を悩ませたことを思い出す。「悲しいとき~」と次々ちょっとほろ苦いepisodeを披露し笑いをとる芸人さんのネタを真似させていただいたことがある。あれからすでに20年近く経つという事実にびっくりだが、「悲しいとき~」はいつも幸せの絶頂で起こりうる。先月、私たちの秘蔵っ子ドクターが結婚した。みんな浮き足立って、「悲しいとき~」が繰り広げられた。「悲しいとき~ 結婚式で職場のおっさんとおばさんが張り切って歌うとき~」最初は、おばさんのソロ、その後、おじさんのソロ、しだいにおばさんがハモリはじめて、少しずつ主旋律をおばさんがもらい、おじさんがハモリ、彩る。その歌を暖かく包み込み、ペースを作るのは、副院長のピアノ。どうしても、お祝いの気持ちを表現したかったのよ、許してね。それぞれの勤務が許すタイミングと場所を求めて、あちこち奔走、最後は毎晩のように丑三つ時に練習したんだよ。「悲しいとき~ 結婚式にスピーチを準備しないできた上司が結婚式そっちのけでずっと台本作ってるとき~」こだわり星人の求めるレベルが高かったもので、歌の練習が厳しすぎて、寝る時間もなかったの。36時間寝てない状態で参加だったのよ。式そっちのけでずっと台本作ってたけど、ずっと二人の幸せを願ってた2時間だったの、わかってね。会場に着いて初めて披露宴最後の挨拶だって知って焦ってたのよ。お父様のご挨拶の後でどうしようか、冷や汗よ。そして、お父様のご挨拶は感動的だったじゃない?言葉や話した内容というより、その込められた気持ちに感動した後だったから、緊張したのよ。「悲しいとき~ 結婚式で職場のおばさんがブーケを奪って帰ったとき~」恥ずかしいから、参加しないって言ったのよ。でも、司会の方に、さあ、中川先生も参加してください。ってアナウンスされてしょうがなかったのよ。で、みんなが遠慮してポトっと床におちたブーケ、実習に来てくれたことがある先生が拾って、義理でくれたのよ。別に拾ってとって来いとか、私がとるから、みんなだめ。とか言ったわけじゃないのよ。ごめんね、秘蔵っ子。愛情の示し方が上手じゃなくて、困ることも多いだろうけど、心からおめでとう。言い訳にしか聞こえないかもしれないけれど、歌いながら、思ってました。こうして、ソロだったそれぞれの人生が、ハモリはじめて、一曲の人生が奏でられてゆく。その人生の一部かも知れないけれど、こうして札幌徳洲会病院として、支えられることは幸せだし、共にすごせて感謝してます。二人で美しい曲を紡いでいってください。すばらしい人生を。おめでとう!

ユニセフのポスター アフリカにて撮影 赤ちゃんには母乳をあげようというキャンペーンである。もちろん母乳の良さについては各方面で説かれているためここでは触れないが、このポスターの意図するところは日本とは少し事情が違う。この地域では水道がある訳ではなく、井戸や川で水を汲まねばならない。当然ながらきれいな水ではなく、季節によってはコレラなど流行する。しっかり煮沸していない水で粉ミルクを用意すると当然ながら赤ちゃんは大変な事態になってしまう。だからなるべく母乳を推奨している訳だ。世の中が便利になる反面、自分の置かれている環境への感謝を忘れてしまいがちだ。授乳中のお母さん方をみるとふとこのポスターを思い出す。

医局のboardに三浦雄一郎さんのエベレスト登山に同行した大城先生の新聞記事が張っていた。記事にはキリマンジャロ登山が山にはまったきっかけと書いてあった。言わずとしれたエベレスト(ネパール・中華人民共和国、8,848m)はアジア大陸にあって世界の最高峰、キリマンジャロ(タンザニア、5,895m)はアフリカ大陸の最高峰でその他ヨーロッパ大陸のエルブルース(ロシア連邦、5,642m)、北アメリカ大陸のマッキンリー(アメリカ合衆国、6,194m)、南アメリカ大陸のアコンカグア(アルゼンチン、6,959m)、オーストラリア大陸のコジオスコ(オーストラリア、2,228m)、南極大陸のヴィンソン・マシフ(南極半島付近、4,892m)の合わせて七大陸の各最高峰7山がseven summitsと言われている。これはアメリカ合衆国のアマチュア登山家で大富豪でもあったバスという人物が提唱し実際に登って著書にもなっている。これに対して無酸素単独登山でも有名なメスナーはやっかみか「オセアニア」を全体とみなしてバスの登っていないニューギニアの「カルステンツピラミッド」(4880m) を最高峰とすべきと提唱している。コジオスコがスキー場で頂上直下までリフトがあって夏は車椅子でも押して登れると揶揄されているが大陸にあると定義するとコジオスコを7summitsとするのに分がある気がする。しかし、大陸の定義もあいまいで自分が小学校の頃、大陸は五大陸でオーストラリアは亜大陸であって南極は大陸とは教わらなかった。因みに植村直己さんが世界で初めてfive summitsを制覇した人だと思うがその頃は七大陸の概念がなく五大陸が一般的でモンブランがヨーロッパの最高峰でエルブルースはアジアとされていたし。ヨーロッパとアジアをコーカサス山脈で境界するのが一般的な定義でエルブルースはその東端に位置していてヨーロッパかアジアかは純粋に地理的に定義されるのでなく政治的にも影響されるのだろう。キリマンジャロもイギリス植民地領(現在のケニア)とドイツ領タンガニーカの境界線に位置していたが、後に、アフリカ最高峰だと知ったドイツ皇帝は、イギリスに国境線の変更を要求しドイツ皇帝の誕生日のプレゼントとしてイギリスからドイツへと割譲された。このため、当初直線だった国境は、キリマンジャロ付近で大きくケニア側に湾曲した形になっており、山麓部分も含めた山体すべてがタンザニア領となっている。自分が学生時代タンザニアは鎖国政策をとっておりキリマンジャロ登山は困難だった。この7 summitsを全て登頂した人を7 summiterとして憧れと畏敬の対象になっている。北海道からは女性が第一号のはずで決して根っからのclimberではないのが自分にも少し可能性あるのかなどと夢をみている。

エッセイのテーマとしては少し大げさな感じの題名かも知れない。たまに自分の頭の中の視点なり視野のストレッチを少しばかりしてみたい気がした。この夏も「観測史上初」とか「数十年振りの?」といった表現で始まる異常気象の報告が新聞、テレビで相次いだ。ここ数年というか新しい世紀に入ってからその頻度が徐々に増して来ているように感じるこの手の派手な気象上の変化は一体どうしたわけだろう?と薄々気付いてはいたが、最近は特に気になる。昨年の秋にも早朝の4時頃から携帯電話から何度も避難勧告の通報がなされる程、札幌を流れる複数の河川の水量が満ち溢れた。こんな事は私がこの街に住み始めてから40年以上が経つが初めてのことだ。夏の北極海の氷が消失してしまうほど地球が温暖化して来ている影響の現れには違いないのだろうが。北極海は表層海流や深層海流を介して世界の海と?がっているからシロクマやアザラシの住処が無くなるだけで済まずに様々な生態系にも影響を及ぼしているに違いない。勿論、話は北半球だけの話では済まないはずだ。日本に限らず、北半球の世界の国々は北極の氷が融けた結果として寒気団の位置の緯度変化やそこから生じる気圧変化の影響で夏の更なる高温のみならず時ならぬ低温や局地的に大気の不安定さを増してしまう変化が起こり易くなっているという説明への理解は比較的容易な気がする。6000年前の縄文時代に「縄文海進」という海面上昇があったそうだが、その時は今より平均気温が2度上昇していて海面が4メートル上昇していたという。気温上昇に関する予測では今世紀末には現在より6度以上上昇されると報告されているが、そうなると世界の平均海面が8メートル程も上昇し、東京湾は埼玉県まで拡大するという。平成に入って間もない頃、徳洲会の若手医師の集まりというのが関西の高槻市で開催された際に神戸の学会に行っていた折りに是非参加するように言われて参加した。その際に、当時の徳田理事長から会場の医師達に「ここに直径1メートルの地球があるとすれば大気圏の厚さはどのくらいか判るか?」と質問され、一瞬会場全体が静まり返った。光速度から始めてもそもそと計算した結果、結局約1mmの厚さになる事実に行き着いた。1mm。1969年に人類が初めて月面に足を降ろした時の驚きと感動は当時中学生であった私にとってとてつもない感動であったが、もうひとつ大きな感動というか不思議な感覚で見入ったものがあった。月から映った青い色をした地球の姿だった。「なんて綺麗なんだろう。」という想いが観た最初の印象だった。月という別な天体である宇宙空間から自分達が住む青色の惑星の姿を初めて映像で捉えた瞬間の気持ちは今でも忘れられない。直径1メートルの地球の1mmの厚さの大気圏。更にその下の約1mmの水層圏を含めても薄い膜の中に全ての生き物が生かされていることになる。隕石の衝突で絶滅した恐竜をはじめとした生物の生存が極めて厳しい状況になった原因は隕石の影響による太陽光の遮断だと言われている。「天 地 人」、太陽の光が毎日届いている現在の状況が続く限りは、古代から多くの人間がこの言葉の中に多くの想いを巡らせることが出来た掛けがいの無い人間生活が営まれ続けるであろうと思うし、そうあって欲しい。次世代以降の子供達に引き継げるものとは何なのか。国土の有り様から天災には元来強い我々日本人かも知れないが、人為の影響についてはこれからどうやって最小限にして行くかの工夫に関しても次世代以降に引き継いで行くべき知恵がまだまだ沢山あると信じている。まずは、車に乗る時間をなるべく減らして行くようにしようと考えながらなかなか実行出来ていない自分を反省しながらこのエッセイを書いている。

5年前から国境なき医師団の外科医として年に2から3回、3か月間ほどを世界の紛争地域で過ごしています。そこでは、戦闘が日常です。車の残骸で遊ぶ『戦争しかしらない子供たち』紛争地では日本では殆ど経験しない重傷な怪我の患者さんや、戦争で心に傷を負った人々が溢れています。何も悪い事をしていないのに、毎日爆音とともに生活し、死が隣り合わせで、極貧の生活を強いられる。市民の方々は、さぞかし辛いだろうと思います。同じ地球に生まれたのに、何という不公平でしょうか。しかしながら、そこに生活している方々は礼節を失わず、外国からはるばるやってきた我々を心から歓迎してくれ、感謝の笑顔で一杯なのです。イエメン人の少年は回診に行くたびに満面の笑顔で迎えてくれました「私達は、毎日精一杯生きています。しかし将来に希望を持つ事は難しい状況です。日本は70年も戦争をしていないのですね。とても素晴らしい事です。どうぞ、私達の事を日本の皆さんに伝えて下さい。そして、皆さんと同じ平和がこの国にも訪れる様に祈って下さい。」戦争の真っただ中にあったパレスチナの青年の言葉です。この夏、大勢の医学生が札幌徳洲会病院に見学に来てくれました。清々しい札幌で将来の自分を見据えよう、と日本全国から集まってきた、希望にあふれた医学生達。そんな彼らに、度々、こうした現在の戦争の話をしました。医療者は病気に苦しむ人達に寄り添いたいと思います。かつて東北大学の医学生であった魯迅は筆の力で中国という国を治療するのだ、と決意し、医師の道をあきらめて文筆家となったといいます。道は違っても、人の為世の中の為に頑張ろうという気持ちは、きっと色んな形でこの世界を変えてゆくはずです。学生諸君の純粋な気持ちに触れる事は本当に有難い経験でした。紅葉が色づき始めた病院。

冬の真っただ中ですが・・・夏休みを頂きました。本当は年に1回7月?9月の間にとるという規定があるのですが、どうしても日程の調整がつかず、いまさらですがお休みを頂きました。子供がこの春中学生になるので、これからはそれぞれ忙しくなるだろうと思い大奮発して海外旅行へ行きました。場所の名前は伏せますが南国です。時期は雨季だったので午前中は大雨が多かったですが、しっかり晴れると肌がびりびりと痛くなるくらい熱かったです。太陽の下にいると照りつける日差しが熱く、曇ったり雨が降るとむんむんと湿度が上がり、いつも汗をかきながら過ごしていました。日焼け止めを塗っても汗で取れてしまうので、行って3日目くらいで塗るのをやめました。ある日、朝から大した熱くもないのに、変な汗をかいていましたが、「湿度が高いから・・・」くらいに思っていました。その後晴れたので海へ行って、なれないことに夢中になって取り組んでいると1時間くらいで頭がぼーっとしてきました。これはいかんと思い、屋内に移動し水分補給をしましたが、ふわふわぐらぐら・・・部屋に戻って、冷たいシャワーを浴びて横になったものの、気分がすぐれません。全身は赤く熱感著明・・・『熱中症』になりました。医者の不養生と言われれば、本当に情けない限りです。せっかくの旅行中に、半日近くベットから動けなくなってしまいました。今回は、初めての場所にも関わらず、自分を過信し、その環境をなめていたこと、また、予防策を何も打たなかったことが、その敗因でしょう。やはり、予防と体調管理は重要です。インフルエンザが流行ってきている今日この頃、うがい手洗いの徹底を今年は心がけています。

私が生まれ育った実家には神棚と仏壇の両方があるという一昔前の日本の家庭ではありがちな宗教環境であった。もの心がついた時から親達が両方に手を合わせていたのでなんの不思議も感じないで過ごしていた。勿論、それらが宗教の一部であるとすら思ってもいなかった。実家は禅宗(曹洞宗)でしかも実家の隣が禅寺であったから、幼い頃から寺の何かの催しの時とかに近所の子供らと紙芝居で坊さんの話を聴いていたりした。私の祖父は仏壇には先祖の月命日の時くらいしかお参りはしなかったが、神棚には毎日祈っていた。その姿が子供心にもあまりにも一心不乱なとても生真面目な雰囲気に感じられたので、ある日ついに聴いてみた。「じいちゃんは、毎日何を拝んでるの?」と。答えは意外にとてもシンプルだった。「天下泰平。家内安全。」と。時々町の神主さんがやって来て祝詞(のりと)を奏上し、その中に「なんとかのオオカミ」という言葉が入って来るので「きっとこの神棚には狼さんが祭られているんだろう」なんて全く勝手な想像をしていた。仏壇の前に座ると中学生くらいからは禅宗の在家信徒のための「修証義」というのを時々読まされた。ほとんど意味もわからず脚のしびれを我慢して読んでいた。その意味を理解しようと試み出したのは高校生になってからだ。高校はミッションスクールに入ったのでカトリックの信者である「ブラザー」が愛想良く笑顔で挨拶する環境の中で聖書にも親しんだ。国語の漢文では時々論語も学んだ。老子も一部あったように記憶している。「天網かいかい粗にして失わず」とか。考えてみれば少しずつではあるが、神道、仏教、儒教、道教、キリスト教の何らかの考えなり影響を意識しない中で受けていたように思う。先の東日本大震災では、過酷な環境下でも礼節を失わない被災者の態度に世界が驚嘆したという記憶は今も鮮烈に残っている。日本人の精神構造を形成している基礎に神道やら仏教やら儒教、道教が混在して独自の文化や民度を創り上げて来たと感じている。しかし、取り返しのつかない大きな悲しみの中でも何故あそこまでの冷静さが保てるのだろうか?と、自分が同じ立場に立たされたら本当に同じように出来るであろうかとしみじみ思ったものだ。ついこの間も、広島で土砂崩れが起こって多くの貴重な人命が失われた。心よりご冥福をお祈り致します。日本は地震、台風等自然災害が起こる頻度の多い国土を有している。その中で、和食がユネスコの世界無形文化遺産に選ばれるような文化を持っている。自然の恵みと脅威との両方に上手く対応し、創造して来た集大成であろうと思う。それは、日本のどこの地域にも見受けられる姿だと思う。日本人の自然そのものに対する心持ちや態度、考えを下地にして大変な目に遭った経験やら苦労から学んで努力の末にたどり着いた結実であろうと思う。先日、テレビでサンフランシスコの地震対策の放送を観たが、被災しても実際の災害の程度が少ないのは地域住民同士のコミュニケーションの程度が強い地域だと分析していた。国内での移住の頻度が多い米国では、特に大都市やその周辺では共通の問題であるそうだ。各コミュニティでの住民同士のコンタクトの密度の保持と日頃からの備えが被災の内容を大難から小難あるいは無難にしてくれる可能性を増すようだ。一休さんは「災難に会う時は会うが宜しく候」とおっしゃっているが、因果律の法則から逃れられない時はそうして腹をくくるしか無いだろうが、良いアウトカムを生み出す良い因を日頃から用意しておくと百丈禅師が言っていた「不昧因果(因果を昧まさず)」の教えにも背かないかも知れない。生き延びるのみならず、益々弥栄え(いやさかえ)を創り出して行こうとするならば、人間がこの地上に存在するために必要なエネルギーと食料、水、衣服、住居の確保を今後も十全に行っておくというのが必要条件であるし、人間同士のコミュニケーションの保持は更に必要な条件であろうと思う。歴史家のアーノルド J トインビーが歴史の分析の中で「ある文明の崩壊は、外部からの侵略によって起こったことはひとつも無く、全ては内部崩壊から始まっている」と語っている。支那文明とは一線を画し13世紀に確立したと言われる独自の日本文明を定義する歴史家達が存在するが、その文明の貴重さについては知る人ぞ知ると言う内容であるのは、その理由の片鱗を冒頭に述べた通りの現われの中に見い出すことが出来ると考える。

テレビでTPPに関して、何処かの政治家が「アメリカと相談しながら・・・」と回答していた。何でもアメリカ、アメリカ? 医療の分野でも・・・ 何の脈絡もないが遥か彼方の記憶が突然コラージュのように蘇った。30年以上も前の事。イスタンブール郊外を走る電車の中で、突然男が大声を上げ始めた。それと同時に白い布を広げて回りの乗客に何やら熱心に説いている様子。はじめはカーテンでも売っているのかと思った。連れの地元の男に何を行っているのか聞いたら、「アメリカではどこの家庭でもテーブルにこんなテーブルクロスをしている。あなた達も最先端の文明国と同じようにテーブルクロスを使って見ませんか?」と行商しているとのこと。残念ながら我々が目的の駅を降りるまでテーブルクロスを買った人は一人も居なかった。30年以上も前の事。ギリシアでヒッチハイクした運転手は保険の外交員と言っていた。フランス大統領になったばかりのミッテランについて熱く語っていた。他国のリーダーに関して自説を熱く語れる日本人が何人いるだろう。地続きゆえの当たり前の感覚なのかしらと思った。その彼の希望は40歳になったら引退して、島で悠々自適の生活を送ることだった。そんな発想は初めてだったが、ひょっとしたらギリシアの経済危機はその頃から忍び寄っていたのかもしれない。30年以上も前の事。ギリシア・ブルガリア国境では車と人は別々に入国手続きが行われていた。そのうち大勢が騒ぎ始めた。アテネ発ソフィア行きの国際バスの乗客達だった。事の顛末は国境まで行ったバスが通関、入国のため乗客を下ろした後、そのままUターンして荷物を持ち逃げしたということらしかった。乗客はギリシアの出国手続きを済ませ、ブルガリアに入国してバスが来るのを待っていたが、何時まで経ってもやって来ない。騒ぎ始めて判った、乗客の荷物を全て持ち去って行った大胆な窃盗。セ・ラ・ヴィ。その後の乗客たちの顛末は知らない。30年以上も前の事。スペインのアルヘシラス(アルジェシラス)からモロッコのタンジェ(タンジール)に渡るフェリーの中、一人の若者が居た。見るからに擦れていない両家のご子息と言った印象。聞くとイタリアの農場の息子とのこと。モロッコへは「ハッシッシを買いに行くのだ。」と顔を輝かせていた。フェリーは夜中ににタンジェに到着した。彼の地では同じような旅行客が多いものと見えた。夜中でもありとりあえず一晩の宿をと、右も左もわからずホテルの客引きの言うがまま宿を決めた。部屋に荷物を下ろすと、早速同じ客引きがハッシッシは要らないかと青年に声をかけた。青年は願ってもないことと、客引きに付いて薄暗い路地の中の一室へと案内された。色々な種類の「物(ブツ)」を出されたが、どれが良いのか判らない。変なものを掴まされないかとひと通りの用心はしていたつもりが、「品質を疑うなら色々試しても良い」とのことで安心したのが運の尽き。お試し品ですっかりハイにってしまった彼は、後は売り手の言うがまま、上手く丸め込まれて何がしかを手に入れた。多分お決まりのように品質も値段もボラレたれたのであろう。話はこれからである。翌朝カサブランカに行こうとタンジェの駅に行った彼のもとにどこからともなく人が集まりはじめた。見ると彼は困惑している様子。どうやら集まってきた誰もが皆、彼がハッシッシを買って持っていることを知っており、それをネタにゆすっているらしい。「警察に通報されたくなければ持ち物の一つをよこせ(くれたら黙っていてやる)」と。はじめはそれに従っていた彼もそのうち状況が理解できたようで、せっかく購入した「物」をゴミ箱に捨てて、身の潔白をアピールし始めた。ところが回りの連中はゴミ箱から捨てたはずの「物」を拾い出すと「これはお前が買った物だから、お前の物だ。」と彼に押し付け、再び持ち物要求が始まった。皆あたかも自分のバックパックのように勝手に中身を確認し、それぞれが好き勝手にひと品づつ手にしていた。彼がスッテンテンに身ぐるみ剥がれるまでにはそれほど時間はかからなかった。彼はタンジェ一泊、滞在時間12時間そこそこで、体一つでイタリアへ帰っていった。彼が再び彼の地を踏んだかどうかは知らない。そういえば、アルヘシラスに向かう電車の中、彼の地から帰ってきたと言うパンク風のイギリス人の二人組はモロッコの感想を「Wild country」と言っていた事を思い出した。30年以上も前の事。マドリッドの公園で見知らぬ若い日本人女性に声をかけられた。旅先で馴れ馴れしく声をかけてくる者にろくな奴は居ない。と適当にあしらったが・・・。変な下心を起こしていたらひょっとして今頃北緯4?度東経12?度辺りに居たかもしれない。30年以上も前の事。ドイツの駅で始発列車を待つための駅のコンコースの片隅で寝ていたら警察に蹴飛ばされ身元確認をされた。どうやら不法移民狩りをしていたらしい。フランスではポンピドーセンターの階段の下で野宿していたら、ここは警察が来るからあそこに移動した方が良い行きすがりの人にアドバイスされた。ガール・ド・リヨン(リヨン駅)周辺の打ち捨てられたシトロエンが周りの景色に溶け込んでいた。ドイツの市場で野菜、果物の品定めをしていたら触って選ぶなと叱られた。台所が汚れるからと油を使った料理はしないとか。フランスでは・・・。お国柄?30年以上も前の事。ギリシアからヒッチハイクした車はイギリス行きのブリティッシュ・レイランドのコンテナトレーラーだった。運転手は気のいい人で、窓を全開でアレキサンドロポリス郊外の丘陵地帯を疾走していた。その時、とても爽やかでわずかに艶かしい香りが辺りを包み始めた。初めての経験である。それがオリーブの香りであることに気付いたのはややしばらくしてからだった。オリーブ畑を疾走するトラックのキャビンに流れていたのはピンクフロイドの「One of these days」だった。窓に向かって一度大きく深呼吸をしてみた。今もピンクフロイドを聞くとあの薫りがする気がする。

外科医の仕事は、病気(もしくはケガ)で困っている人に、手術したり点滴したりお話をきいたりして、元気になってもらう手助けをすることです。つまり困っている人を助けるのが仕事なので、自分自身が誰かを困らせるようなことはしないように心がけています。そもそも、おとななので、当たり前のことですが。 しかし、物心つくまえのこどもというのは恐ろしいもので、私も幼少時に両親を困らせたことがあったようです。(当の本人は、あまり覚えていません。) 母を困らせたのは、1歳になるころのこと。 ある日、当時住んでいたマンションのベランダで、母は洗濯物を干していました。ちなみに3階です。おそらく、私が外に出てこないようにガラス戸をしっかり閉めていたようです。このころ、よちよち歩きを覚えた私は、部屋に母がいないのに気付き、よちよちとベランダのほうへ。ベランダに出るガラス戸のところまでたどり着くと、ガラス越しに母の姿を確認。しっかりと閉まっているガラス戸に、中から鍵をかけ、戸締まり完了・・・。そして、満足したのか、リビングのお昼寝マットにもどって眠りに落ちたのでした。ベランダに締め出された母。もちろん、当時は携帯電話もありません。私はぐっすり眠っています。呼んでも全然起きません、というか、呼んで起こしたところで鍵を開けるとは到底思えません。父が帰宅するのはまだ何時間も先です。困った。そこで母は、ベランダの柵に登り(3階です)、おとなりさんのベランダに侵入(知り合いの部屋です、念のため)して、部屋の中にいる奥さんに助けを求め、無事ベランダを脱出しました。おとなりの奥さんはさぞ驚いたことでしょう。そしてマンションの管理人さんに玄関の鍵を開けてもらい部屋に入ると、私は夢の中。怒ることも、叱ることもできず、ただただ困らされた母。その後、我が家ではベランダに出るときはガラス戸を少しだけ開けておくようになったのは言うまでもありません。 父を困らせたのは保育園の帰り道で。 いつも保育園の行き帰りは父の自転車のうしろに乗せてもらっていました。おしゃべりで歌うのが好きだった4歳か5歳の私は、両親が好きだった、加藤登紀子さんの「百万本のバラ」、や、高橋真梨子さんの「桃色吐息」を自転車の後部座席で熱唱。夕暮れの住宅街に響きわたる、「さーかせーてー、さーかせーてー、もーもいーろーとーいきー・・・」保育園児には、歌詞の意味など全く理解できるわけもなく、ただ好きで歌っていたのですが、父はずいぶん困ったようです。やはり叱るわけにもいかず、「桃色吐息」はやめてくれと言われたような気がします(が、あまり記憶は定かでありません)。父は相当恥ずかしかったようですが、今となっては笑い話です。 理不尽なことも、つらいことも、困ったことも、喉元すぎればなんとか、と、あとで振り返れば、思い出になってしまうことはたくさんあります。どんなときも、なるべく広い心をもって、おおらかに対処できるようにありたいものです。そして、暑さを忘れた頃に、思い出話ができるように(かつ、同じ苦しみを二度と味わうことのないように)しっかり記憶にとどめておけるといいのですが。

我が家は全員そろって大食いで、エンゲル係数は非常に高いです。今も私はBMIが低いわけではないのですが、乳児の頃は更にひどく、完全母乳なのに体重が+2SD(平均と比較し、非常に太っている指標)になり、母が慌ててスイミングに通わせて、やっとすっきりした体型になったそうです。第一子の4歳児は乳児の頃に体重が+2SDでぷっくりしています。2018年1月に第二子が生まれ、また体重が+2SDになってしまいました。私も基本的には母乳育児なので、何が乳児の体重を増加させているのかわかりませんが、自分に含まれる遺伝子は乳児期に体重増加をもたらすようです。自分のダイエットもかねて、子ども達とスイミングに行くことにしていますが、やはりスイミングをすると体型がすっきりしてきて、第一子はやっと+1SDになりました。「この垂れたほっぺはいつ無くなるんだろう??」とはらはらしています。今年は第一子が幼稚園、第二子が保育園デビューし、二人とも風邪を引き、早々と私もうつされて、健康管理に気をつけています。最近、農家の息子という配食サービスにはまり、1食400kcalで塩分控えめ、管理栄養士さんが作った美味しい料理を息子と平日の毎夕食で食べています。お母さんの手料理は・・・というと、土日だけ手料理の手抜きママです。しかし、気づくとお腹が鳴っている自分や、炊飯器を開けてご飯を食べてる子どもや、口をパクパクしてミルクをねだる赤ちゃんの様子を見ていると、我が家は質よりもたくさん食べる方が重要なのかな?と、悩んでしまいます。皆様も体重管理にはくれぐれも気をつけて、変形性関節症の予防に気をつけましょう!

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私はテレビ好きで昔はよくテレビをみていた。リアルタイムで見られないときは録画して見ていた。ところが今はリアルタイムでテレビで見るのはバラエティぐらいで、他はティーバーやその他のネット配信で見ている。その方が自分の好きなタイミングで見られて、かつ好きな場所で見られて都合がよい。半沢直樹、7年ぶりに非常に面白かった。私の家政婦ナギサさんもなかなかよかった。

1998年に公開されたスピルバーグ監督の「プライベート・ライアン(邦題)」という映画がある。1944年のノルマンディー上陸作戦に端を発する物語である。ある事情によりミラー大尉にライアン一等兵の救出命令が出された。一兵卒の救出に命を賭す意義に疑問を感じつつも、多くの犠牲を払いライアンのもとに辿り着いたミラー分隊。だが、ライアンは他の仲間を置いて自分だけ去るわけにはいかないと後方への移動を拒否する。仕方なくライアンとともに前線に残ることになった分隊だが、そこにドイツ軍の戦車が…“Earn this.”これがミラー大尉の最後の言葉そしてライアンに対する命令だった。その時ライアン一等兵は応える言葉を持っていなかった。それから何十年かたち、家族、孫たちに囲まれて、初めてミラー大尉の墓前にやって来たライアンが口にした言葉が“I only hope, in your eyes at least, I earned what you did for me.” だった。この3時間近い映画も、この”Earn”という一語に集約されるのではないか。でも、しっくりとくる日本語が見当たらない。“Earn”といえば、私の中では、受験英語風に「(働いて)金を稼ぐ、儲ける、生計を立てる」とか「(名声、評価を)得る」というような、金銭や名声絡みの何か少し生々しいニュアンスを持っていたからである。ストーリーの流れからの意味としては理解できていても、自分にとっては何か場違いな感じのする言葉として、どうしても違和感を拭いきれなかった。それでは訳本ではどうなっているか?と確認してみたところ、“Earn this”は「それに見合う、ひとかどの男になれ」という訳になっていた。だが、これではどうもしっくりこない。最後の言葉にしては冗長過ぎる感が拭えない。そして“I only hope …”に関しても、「それだけのことに見合う、ひとかどの男だったろうか?」と訳されており、これまたどうもしっくりこない。Earnしろと命令され、その使命に応えたか?という文脈での意味としては成立するのだが、最後の力をふりしぼって発する簡潔さが無いのだ。自分であれば、“I only hope … ”に関しては「あなた(方)の恩に報いることができただろうか…」とでも訳して落ち着けるかなとも思うが、”Earn this”の2語にふさわしい、しっくりした日本語がなかなか見つからない。「無駄にするな」では少し弱い。自分が望まなかったとしても、それを受け入れざるを得なかった多くの仲間たちの運命を背負って生きろという積極性に欠ける。救出の原因となったライアンの兄弟の犠牲、ミラー大尉達の犠牲、さらに、その時の状況を形成したすべての犠牲からEarnしろという、ライアンだけではなく、すべての生き延びた者たちへの重層的なメッセージとして解釈できなくもない。あと1つで完成するジグソーパズルの、最後の1ピースが見つからない様なもどかしさ。自分だったらそんな状況で、どんな言葉を選ぶのだろうか? と自問しつつ、まだ言葉探しは当分続きそうだ。

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