ファンクラブ解散のジュリー 気ぃ長ぁに暮らしましょう ライブ再開へ望みも週刊朝日
青空文庫(あおぞらぶんこ)とは、日本国内において著作権が消滅した文学作品、あるいは著作権は消滅していないものの著作権者が当該サイトにおける送信可能化を許諾した文学作品のテキストを公開しているインターネット上の電子図書館です(Wikipediaより)。著者の没後50年を経て著作権が消滅した作品や、著者自身により無償閲覧可能とされた作品等が電子化され、基本的に無料で閲覧可能となっています。ですから、登録されている作品は、明治から昭和初期のものがほとんどですが、これが意外と楽しめる作品が多く、全く飽きることがなく、ついつい、到底読むことができない量の作品をダウンロードしてしまいます。かの食通、北大路魯山人の随筆は、札幌市内の地下鉄、JRでの移動時に最適の分量です。「すき焼きと鴨料理」では、漫画に引用された鴨料理の店「ツール・ダルジャン」での逸話、ソースなしの鴨を持って来させ、手持ちの醤油とワサビで食し、「この方がうまい」とのたもうたエピソードを、地下鉄新さっぽろから大通りまで移動中に楽しめます。「塩昆布の茶漬け」は、わずか数ページの作品なので、お腹が空いたときのJR新新札幌から札幌駅間あたりに最適です。「・・昆布は京都の松島屋、東京ならば築地魚河岸の特産店、日本橋室町の山城屋とかが取り扱っているものだ。・・・醤油はヤマサくらいでよかろう。・・・直火ではなく湯煎で煮つめるのである。」という魯山人の語りは、丁度良い食前酒代わりとなります。時間がたっぷりあって、ディープな次元に沈みたい時は、夢野久作の名作「ドグラ・マグラ」なんていかがでしょう。初めから読まなくても、開いたページには頭のメリメリ感がたっぷりの世界が広がっています。もっと時間がある方には、吉川英治「三国志」全12巻が。また、紫式部作、与謝野晶子訳「源氏物語」56巻が用意されています。大正・昭和生まれの青春を語るには、倉田百三「愛と認識との出発」・「出家とその弟子」や、阿部次郎「三太郎の日記」も読むことができます。夏目漱石や島崎藤村、下村湖人、短編・長編・詩集など、もう読みきれません。翻訳の著作権の関係から、海外の作品には少し弱いようですが、ダンテ「神曲」、森鴎外訳・ゲーテ「ファウスト」、坪内逍遥訳シェイクスピア「ロミオとジュリエット」といった作品も読むことができます。いかがですか? iPhoneで読むのであれば、「豊平文庫(有料アプリ、わずか360円也)」で読むのが手軽かと思い、おすすめです。また、Android アプリにも、青空文庫ビューワーがあるようです。スマートフォン、iPod、iPadなどに用意しておけば、文庫本を何冊も持たなくても、電車・バス・飛行機での移動中など、いつでも図書館気分を味わえること請け合いです。最後に、2003年以降、米国政府は日本政府に対して、著作権の保護期間を「個人の場合は死後70年・法人の場合は公表後95年」に延長することを要求しており、2015年以降、とくにTPP参加後は、現状の雲行きが怪しくなっていることを付け加えさせていただきます。
私は消化器内科医師である。消化器内科医である以上、カメラすなわち内視鏡検査を日常診療の一環として施行している。原則、内視鏡検査を速やかに行うことが肝要とされている。とはいうものの最初からスムーズに施行できたわけでない。 昭和63年3月に札幌医科大学医学部を卒業して、医師国家試験に受かった後、札幌医科大学第一内科(現在の消化器内科講座)に入局した。初年度は先輩の管理下で上部内視鏡検査(いわゆる胃カメラ、この後便宜上胃カメラとします。)を10数件施行する(こなす)ことが通例とされていた。しかし、私の場合に当時の上司(いわゆる上級医)K藤先生が胃カメラをすべて施行するので、私の分が回ってこない。また、今では当たり前に胃カメラは電子スコープであるが、当時は大学病院しか電子スコープがなかった。他の病院はまだグラスファイバーからなるファイバースコープであった。ファイバースコープは術者しか見えないのである。電子スコープであれば、現在の様にテレビなどのモニター画面に映るため、大勢の皆でモニターをみて、議論したり、若年者の医師の指導についてもモニターを示しながらできる。当時は術者自身が最新式の電子スコープを使えたいので奪いあい状態であった。研修医の指導どころではなかった。平成元年6月にM市立病院内科に移動した。いわゆる研修である。当時、一期先輩のS谷先生が「今度来る研修医は大学で30件以上胃カメラをしてきた強者だ。」と嫌味な噂を流していた。実際には私自身、胃カメラは3件しかしていなかった。当時のM市立病院の上級医のF先生(前回、「泥棒」のエッセイで登場)は「30件でなく、3件?」「はい。」「え???」「なんだ、初めから指導するのか・・」とトーンが下がる。その当時、私の担当の胃カメラの施行日は月曜日と水曜日の2回であった。月曜日はF先生と、水曜日はK副院長であった。最初の月曜日の朝、内視鏡室で胃カメラの開始である。当然、電子スコープでなく、ファイバースコープである。ファイバースコープは術者一人しか観察できない。他者に見せるならレクチャースコープを装着するが、術者には観察視野の光量が減り見えにくくなる。突然、ストップウオッチが渡された。「何ですか?」「5分だ。5分経って、カメラが入らなかったら交代!」無茶苦茶である。これが指導か?。当時は、なかなかカメラを飲ますことができなく、よく交代したものです。水曜の胃カメラが終わったら、疲れ果てて一週間が終わった気がしました。胃カメラ施行医のストレスである。その2週間後、心窩部痛で来院した70歳の胃潰瘍の患者さんが入院して私の担当になった。当時は現在の様に、ヘリコバクターピロリ菌の除菌も強力な酸分泌抑制剤もなく、2週に一度、改善を確認するために胃カメラをしては、粘膜保護剤を調整したものです。半年後、この患者さんが胃カメラのあとで「先生、胃カメラ上手になってきたね。はじめは下手でひどかったね。」と笑って言われたときは本当に頭が下がる思いでした。その頃から、胃カメラの観察&技術も向上し、胃カメラをするストレスも消退してきた。そんなある日、89歳の女性の平坦型の早期胃がん(Ⅱb)の症例に遭遇した。一緒にF先生と観察して、確認しました。翌日副院長回診の後に、K副院長が「お前がⅡbを見つけたって(10年早いぞ)?怪しいから、俺がチエックする。」となんとF先生と観察した2日後にいっしょに観察しなければならなくなった。いざ、胃カメラ施行中に胃カメラを覗きながら「これがⅡb?(本当か?かなり怪しい)。一応生検しておくか?」後日生検結果が癌であり「これが癌か。Ⅱbか。東はカメラがしつこいからな?」と胃カメラがしつこいK副院長に言われてしまった。K副院長は別名「覗きのK」の異名を持つ。一度、大腸内視鏡検査で50個以上のポリープを12時間かけてしつこくポリペクトミーをしたそうだ。その間ファイバースコープを覗くように見るためにそのような異名がついたそうだ。という感じで、研鑽(?)を積みかさねて、現在まで約2万件以上の胃カメラをするに至った。今となれば楽しい(?)思い出です。
長年のファンで、埼玉県在住のA・Jさん(46)は次のように語る。
先日、S○NYタイマー(S○NY製のタイマーの事ではない)なるものを経験したのでその報告を。大きな声では言えないが、私はテレビゲームが大好きである。携帯ゲーム機全盛の世の中であるが、テレビの前に座してするゲームが大好きである。本格的にはまりだしたのは大学時代、N天堂のファ○コンでメタル○アとかDQ、FFなんかをやり込んでいた。その後もスーパーファ○コン、P○1と変遷していき、ここ最近はP○2を愛用していたのだが昨年1月、アスペクト比4:3の時代ではなかろうと、P○3を購入。ここ一年くらいは調子良く遊んでいたのだが、今月まさかの電源落ち・・・。購入してちょうど1年ちょっとの絶妙なタイミング!!!これが噂のS○NYタイマー?購入時の書類を確認すると保証は1年で延長保証は付けていない・・・。症状に再現性があり、どうしようもないのでP○クリニックなるところへ送った。それほどヘヴィに使用した訳でもなく、間違った使い方をした覚えもないのだが・・・・。洗濯機や冷蔵庫、掃除機なんかは延長補償を付けたりしているが、あまり値の張らないゲーム機には付けていなかった。う?ん、残念。今後はS○NY製品には補償延長サービスを付けるようにしようっと。追記:意外にも(失礼!)S○NYの対応は良く、発送の4日後には修理品(基板交換)が戻ってきた。しかも無償扱いで。S○NYさん、ありがとう!
私は、昭和大学藤が丘病院から渥美教授、小原准教授のご好意をうけ国内留学の立場にて8月から赴任させて頂いております。重度四肢外傷の骨,軟部組織再建において[皮弁、マイクローサージャリー][創外固定]の2つの技術と知識は必要であり、治療戦略において強力な武器となります。それは相対するものではなくお互いの利点を生かした治療戦略を立てるべきだと思っております。留学先を選択する際に、元々専門としていた[創外固定]の知識を深めるためイリザロフセンターへ留学するか、触れる機会の少なかった[皮弁、マイクローサージャリー]の知識と技術を身につける為に札幌徳洲会病院へ国内留学するか迷いましたが新しい事にチャレンジする事に決めました。(札幌徳洲会病院=外傷センター)の印象がありますが赴任して驚いたところは、森院長が昼夜問わず臨床、仕事をしている事でした。外来に、手術、当直や救急当番までしている姿は尊敬に値するものだと思いました。また、外傷センターでは完結せず内科、外科、プライマリー科の先生方の力をお借りする事が多々あり成り立っているものだと思いました。赴任後半年経過し土田先生の御指導の下、前大腿外側皮弁、VAF、指動脈皮弁、逆行性指動脈皮弁、指尖部損傷他、多くの症例を経験させて頂いております。引き続き土田先生、諸先生方のご指導を仰ぎ国内留学を有意義なものにし昭和大学藤が丘病院へ技術を持ち帰りたいと思っております。今後ともよろしくお願い致します。
リレーエッセイの原稿の依頼があり、何を書こうか考えが全然まとまらず、今日(7/16)はお笑い芸人:ピースの又吉君が芥川賞を受賞しましたとか(おめでとうございます。快挙です!)、台風が四国に上陸しましたとか(北海道は?)、などテレビでは流れていますが、「どうしましょう」ということで。「そうだ!」最近の楽しみというか、マイブームについて書きたいと思います。それはいろいろなLiveを、(できれば家族と)見に行くことです。当院に赴任してから早いもので5年目となりました。前任地がやや田舎だったため、(オホーツク地方の方、すみません。)なかなか好きなアーチストのLiveなどを観る機会がありませんでした。(札幌はすごく恵まれていますよね)。取りづらいチケットを何とかしてとるのもマイブームです。ぴあなどの会員になって先行抽選に応募したり、発売開始の時間直後に何度もTELしたり、時にはファンクラブにも入ります。入手困難でどうしても見たい場合は、多少値は上がりますが、様々なオークションでも購入するというスタンスで行きます。でもLiveは本当にいいですね。先々月はミスチルのコンサート(北海きたえーる)に行きました。みんな一生懸命で本当に素晴らしい楽曲の数々でした。アラフィフのおっさんの僕ですが、盛り上がって汗かいて、ウルウルして大変感動しました。9月下旬には浜田省吾のチケット(ニトリ文化ホール)が2枚、何とか取れましたので、子供たちには留守番してもらって妻と出かけて来たいと思います。思い出の曲が色々とありますので今から大変楽しみです。「いいLiveは明日への活力」ということで、忙しい中でも、時間を作って是非、皆様も大好きな方、ご家族と出かけてみてはいかがでしょうか?深夜に急いで書きましたので乱文で失礼いたします。それではまた。
両親の話しでは、幼稚園生の私は、大きくなったら何になるの?という質問に、「うさぎちゃん」と答えていたらしい。うかつだった。両親はおしゃべりだ。30年以上たった今も、ことあるごとに、親戚に言う。友人に言う。元彼にも、元々彼にも、元々々彼にも・・・。うかつだった。しかし、うさぎちゃんが寂しさに弱いというのは、本当だろうか。今、こうして、研修医に怖がられる私も、少し、別れには弱いようだ。この仕事は、とにかく別れが多い。プライベートな別れはさておき、患者さんは元気になったら、退院。力及ばず、眠りにつかれる方も少なくない。研修医は育ったら卒業。同僚はみな、どこかの時点で、キャリアアップのために部署や職場をかえてゆく。特に、冬から春にかけては・・・別れの季節だ。最後に旅行をしたのは、そんな別れの季節だった。オーストラリアで行われた勉強会に参加した。オペラハウスを見てきた。柔らかい光が反射し、晴れた空と紺碧の海に映えた。思わず息をのむほどの美しさ。って、きっとこういう時に使う日本語だったんだぁ。うっとり眺めた建物は、当時、無名だった建築家によって設計されたそうだ。彼は、生まれも育ちもオーストラリアではなかった。彼の設計案は図面ではなく、アイディアを書き留めたデッサンであり、建築設計競技の一次審査で落選した。しかし、その自由な発想とアイディアを審査員の一人が強く支持し、最終選考に復活させたとされる。以降、何年もかけて、デザインは少しずつ形を変えながら、建設可能な図面へ書き換えられ、着工された。建設は、大幅に予算を上回り、時間もかかった。そして、デッサンが採用されて10年後、建築主である州政府がかわった時、彼は解雇され、自国、デンマークに戻ったという。10年かけて取り組んできた仕事から離れる時、彼はどんな気持ちだったのでしょうか。オペラハウスのガイドさんに尋ねました。「彼の気持ちは彼だけのものだから、分からないよ。でも、彼は、後押ししてくれる人を失い、時代の流れの中で行き止まった。そういう時にできることは、祈ることだけだと思う。そのアイディアが形をかえながらも育まれ続けることを心から願う時、自分がどこにいるかなんて、些細な問題になるんだと思う。彼は、完成を心から祝ってくれた。それだけは確かだよ。」その後、彼はシドニー大学の名誉博士号やオーストラリア勲章を授与され、高齢で旅行ができなかった本人に代わり、息子さんが受け取られたという。こんな風に夢中になることができる仕事に私も出会いたいと思った。そういう沢山の人の手を経ながらも育まれる価値がある仕事に関われたらいいなと願った。たとえ、設計図がなくても、心が呼ばれることに取り組んでみよう。帰国後、プライマリ科に就職を決めた。そこには、一生懸命なスタッフがたくさんいた。プライマリ科がある5西を率いる師長さんは、とっても厳しかった。私が未熟なこともあり、スタッフは自分のために何かをする余裕はなかった。患者さんを中心にかけずり回っている。自分のための一呼吸の余地もない状況下、師長さんには、よりいっそう憎まれ役をしてもらった。退院した後に、何度も患者さんやご家族に電話し、アフターケアをしてもらった。ずっと、私の尻ぬぐいに追われてきた。12月、師長さんが5西病棟を離れる。これからは、病院全体の患者さんの退院後をサポートする。私の師長さんから、病院の師長さんになる。正直、私は、うさぎになっている。しかし、頑張りたい。それが一番の恩返しだと思うから。5西病棟は、新しく熟練の師長さんも迎える。少しずつ形を変えながらも、すてきなオペラハウスをつくっていきたい。残してもらったものを大切に、新しい師長さんとみんなで、育んでいきたい。頑張りたい。でも、うさぎ。
新病院がオープンしてから半年が経ちました。やはり新しくきれいになるといいものです。産婦人科は3階に配置されております。病棟も外来も同じ3階になります。外来と病棟はドアにて境されていますので、医師と看護スタッフが比較的素早く移動し、対応できるようになっています。外来のスペースは旧病院よりほぼ倍になり、ややゆったりとした感じになりました。かねて希望のあったキッズルームを中に配置でき、子供達がおもちゃを相手に遊んでいる姿もよく見られるようになりました。(旧病院にはそのスペースがなく、子供連れのお母様には迷惑をかけていたと思われます。)母親の診察のとき「お子さんは?」と訊いたとき、「キッズルームで遊んでいます。」と特に心配した風でもなく返答があったり、母親と一緒に診察室に入っていた子が、終わるといち早く「おもちゃのところへ行くー。」と、せがんでいる姿を見ると、なかなか役に立つスペースができたものだと思いました。(設計を考えたのは、助産師さん方の案ですが)ただ、医師の数は、まだ増えていないので、待ち時間が時に長くなってしまうこともあり、申し訳なく思っております。旧病院だと一旦病院を出て、生協(ルーシー)などで時間をつぶす方もおられましたが、新病院はいくつかのテーブルと椅子を置いた広めのデイルームもあったり、ローソン、タリーズ、さくら食堂などがあったり、多少院内で時間をつぶすことが可能になったようです。(それで許されるとは決して思ってはいませんが・・・)病棟の方は、こちらもスペースが広くなり、各個室も広くなり、トイレ、シャワーを設置しております。旧病院の個室は狭く(申し訳ありませんでした。)ドアを開けたらすぐベットという感じでした。回診の時ドアを開け、顔がすぐ目に入るので、「どう?」「元気です。」「あ、そう。」と、部屋にも入らずの会話ですんでしまうこともありましたが、新病院では広くなったため、ドアを開け、「タノモー」じゃなくて「回診でーす!」と声をかけてからツカツカと中に歩み入って「イカガカナ?」じゃなくて「どうですか?」と訊く感じで、動線が長くなり、回診から戻るときはフーフーしてしまう位です。(個人的には健康のためには、いいかと思っています。)ドアを開けたらいきなり顔が、といった旧病院の狭いスペーからみると患者さんのプライバシーもかなり保たれると思います。母児同室を了承している当科では、子連れ入院した場合、子供達の自由度も多くなり、またトイレもついているので 一旦に子供を病室の外に連れて出て、トイレの場所へ行くということもなくなりました。部屋から見る高速道路を走る車の騒音はどうかなと気になっていましたが、殆ど問題もないようで安心しました。子供達にとって高速道路を走る車を楽しく見るのだろうと思っていましたが、窓から見える外を走る車より、自分の手元にあるミニチュアカーの方がよっぽど好きのようで、予測が外れてしまいました。ま、とにかく新しい病院の雰囲気を感じながら診療しているところです。
そう言えば、私の地元、旭川出身の大作家、三浦綾子さんも自身初の長編小説で「氷点」を世に送り出しました。小説の舞台が身近で、容易に目前に広がる実感・共感があり、その壮大な人間描写にも魅了され、他の作品を読みあさったものでした。「塩狩峠」、「泥流地帯」の舞台も隣街。ドライブや出張で通りがかった時には、「この場所であんなことが起こったのか~」などと感慨にふけった若かりし頃を思い出します。
私は小樽の生まれで小さい頃は海のすぐ近くで育った。幼少期はかけっこで1分。夏は毎日、家から裸足でとびだし海へザブンと飛び込んだ。祖父が漁師であったため祖父母や母も毎日海へ行くから、私が海へ毎日行くのも当然だった。おかけで4歳の頃には浮き輪なしで泳いだり潜ったり。その後小学校入学前に祖父母宅から引っ越したが、やはり海までは10分。少年野球をしていたが、夏休みは練習のあと毎日海へいって汗を流す??のが日課だった。中学生になっても海水浴。高校生になると毎日海には行かないが、家から2-3分歩いた小高いところからは毎日海を眺めることができた。大学に入り旭川へ。さすがにこれだけずっと海の近くにいたので、海のない町へ行くとしばらくは落ち着かなかった。たまに小樽にかえると海があり安心できた。大学を卒業して札幌へ。さすがに研修医は忙しくあまり海にはいけない。夜にドライブでたまに見る程度。その後沖縄にほど近い離島医療を2カ所で経験することができ、また海が身近にあった。一つ目の離島は妻と暮らし、二つ目の離島では長男も一緒だった。南国の海は北海道のそれとは違い非常にきれいだった。やはり海と潮の香りで心がおちつく。我が家では妻も息子も娘も皆南国好きである。今までの家族旅行のほとんどは南の海だ。家族は単に南国が好きなのだろう。私は南国の雰囲気も好きだがやはり海がおちつくのだ。またいつか海の近くに住みたい。潮の香りと心地よい波の音に囲まれて。
去る3月18日・19日の2日間、タイ・バンコクでCadaver-surgical-approach-Semminarをやって来ました。今回は当院外傷センターで企画し、札幌徳洲会病院の援助のもと、ひっそりと開催いたしました。手術手技は日々進化しており、手術手技の習得・維持、向上のためには技術の修練を必要としますが、その機会はいまだ極めて少ないのが実態です。これまでは学会や大学で主催しているセミナーに参加するか、つてを頼って他院へ手術の見学をしに行くしかなかったのですが、解剖セミナーは抽選倍率が高く、日程や高額の参加費の関係で、なかなか参加できる機会がありません。また、手術見学は日程や先方の受け入れの問題でこれもなかなかに大変です。さらには、国内での実習は、諸般の事情により最近やっと開催されるようになったばかりです。こういった事情で、プライベートでのセミナー開催を企画したところ、思いのほか当院の臨床教育に対する理解があり、開催することが出来ました。初回の為いろいろ改善点もあり、非常に有意義な実習となりました。なんとか定期的に開催し、民間病院でも教育頑張ってますよというところを見せられたらと思います。最後にコース開催に理解と協力をしてくれた札幌徳洲会病院、何より異邦人である我々に貴重な献体を御提供頂いたチュラロンコーン大学とタイ国のご厚意に感謝して筆をおかせていただきます。ありがとうございました。
僕の小学校時代はファミコン全盛期であった。その中で印象に残ったゲームがある。 「ドラゴンクエストIII」だ。 有名な作品なので皆さんもストーリーは知っているかもしれない。16歳を迎えた主人公が勇者となり、仲間とともに長い旅の末、魔王バラモスを倒す。しかしその後、悪の大元である魔王ゾーマがいることを知り、大地に開いた大穴から異世界へ旅立ち、これを討伐する。 ゾーマを倒した後、自分の故郷に帰りハッピーエンドとなるはずだが、ダンジョンをぬけ、外に出ると画面が揺れ…「そらの うえのほうで なにかが とじたような おとが した!」というメッセージが現れる。 つまり元の世界へもどる出口が塞がれてしまい、そのまま勇者一行は、異世界(アレフガルド)で生きて行く羽目になるわけである。この一節に、子供心にかなり驚愕したのを覚えている。 元々主人公に、自分の名前をつけてプレイするスタイルなので、主人公にかなり感情移入していた。故郷に帰る幸せさえ許されない理不尽な事実に憤りを覚えることもさることながら、不運を表情も変えず(ファミコンなのでキャラクターの表情はあまり表現されていない)、従容と受け入れる主人公の姿にも苛立ちを覚えた。 お前はさびしくないのか?勇者だから我慢しているのか?…と。果ては、自分の家に帰りたくない何か社会的な理由があったのか?などとも考えたりした。 あの頃のゲームは、今思えば説明不足や理不尽さが目立った。だからこそ「自分ならこうする」「自分ならこう考える」という余地があった。現在の作品はどうだろう?かなりストーリーが作り込まれて完成されている。完成されているために疑問をはさむ余地がないように思える。予定調和であり、裏を返せば空想する自由がない。“未完成であるがゆえに完成する”というケースだろうか。 ゲームの話に限らず、実際の人生の局面でも、そういう事例は時折みられるようである。そんなことをふと思った。
先日、家族で日ハムの試合を札幌ドームに観に行った。時間がある時には試合開始まで余裕を持って行き、ビールを飲みながら食事を取り練習から観ている。 その日もドーム前でバスを降り階段を登って北3ゲートへ向かう。あれ?いつもより並んでいる人が多い。何かを貰える日だったかな?と思いながら、時間を潰すためにグッズ☆ジャムへ入る。フラッグ、風船、帽子なんかを買い外へ出るがあまり動きがない。南ゲートの方が混んでいないと思いそちらへ向かう。北2、1ゲート、西ゲートを過ぎて南ゲートが見えた。あれ?こちらの方が凄い感じがする。しかも一部のゲートが開いていない。東ゲートは閉鎖していたので結局ドームを一周して最初にいた北3ゲートから入場した。そんな訳で、その日は入場までに少し時間がかかってしまい食べ物とビールを買って席に着いた時には試合開始までそれほど余裕がなかった。まずビールを一口飲み、食事を取っている途中で国家斉唱となった。食事も終わり、いよいよこちらも臨戦体勢のはずが。その日はいつもと少し違う野球観戦となった。席は実況席の左横でシーズンシート用の赤いカバーが掛けてある席のすぐ上だった。我々の席の2列前にレアードと書かれた黄色いTシャツを着た外人3人組、その2つ右側にアルシアのユニホームを着た明らかに南米女性の二人連れ、さらに2例前には3番のユニホームを着た家族、その右隣りには25番のユニホームを着た家族(明らかに関係者)が座っている。ちなみに私は8番を着ている普通のおじさんですが。その日もビールを2杯、3杯と飲みながら一喜一憂しながら盛り上がっていたのですが、どうもいつもと勝手が違う。2列前、4列前が気になってしょうがない。特に、その選手が出てくるとどんな行動を取るのか、席を立って移動しようものなら、ずっと目だけは追ってしまい何を観に来たのか分からない。私がドームで観戦する時の勝率は割と高く「勝利の女神」と呼んでいるのですが、こんな事をしていたせいか、その日は負けてしまった。ファンの皆様、この次からは真剣に応援しますのでお許し下さい。なお8月26日の観戦時、マルチネス選手、清宮選手、鶴岡選手の活躍で勝利しました。試合も残り少なくなりましたが、最低でも2位になってクライマックスシリーズを札幌ドームで戦って欲しいものです。がんばれ僕らのファイターズ。
以前、骨折治療学会で演題発表する為、熊本に来ていた。学会発表と言えば、PowerPointやKeynoteによるスライドプレゼンが一般的である。学会、研究会バブルと言われて久しい。確かにいろいろな会が沢山ありすぎることも事実なのだが、最近スライドを自分で創る事、そればかりでなく他の人が創ったスライドを見聞きする機会が本当に多くなった。 そのような機会が多くなった理由の1つは、誰でも簡単に上手にスライドを創る事が出来るようになったからである。そして、「目立つプレゼンと目立たないプレゼン」「わかりやすいプレゼンとわかりづらいプレゼン」の差はそのスライドの文字、大きさ、配置、背景、そして演者の表現力によるところが大きい。しかし文字や背景の「色」も大きく関係しているのも間違いないことであろう。私の恩師、石井清一(札幌医大整形外科名誉教授)先生は当時の札幌医大整形外科の教室員に対して「学会の予演会や論文校正を通じて医師を教育する」という強い考えを持っていらした。学会前の医局での予演会は毎日夜遅く、地下鉄の終電の時間まで続いたものである。私も指導を受けた一人であったのだが、石井教授はどうもオレンジ色が好みのようで、スライドの大事なところを「オレンジ色にしなさい」と言われたのはおそらく私だけではない筈だ。 さて、私は外傷整形外科医である。「色」に関連することでパッと頭をよぎるのは、患者さんの患部の皮膚の色である。受傷時や術後、組織に血が通っている指先や皮膚のあのピンク色(患者さんの個人差があるのだが)を見ると心が安定する。逆に血行が通っていない暗い白色や紫に近いうっ血色の皮膚を見ると、ひどく心は動揺する。これらの「色」ほど外傷整形外科医の心を揺さぶるものは無いのである。 「色」の勝負、というと私は野球のユニフォームがパッと頭に浮かぶ。特にプロ野球のユニフォームの色が引っ掛かる。どうも各球団はコロコロとチームの「色」を変えがちなのではないか?と思うのだ。西武はあの水色に近い青色を着なくなってから調子が良いとは言えないし、中日の青も最近紺色がかって変になってきた。反対にロッテは文字がピンクだったユニフォームから黒を基調にしたものに変えて強くなった。DeNAは横浜時代に優勝した青色の余韻を引きずり過ぎているようにも思える。うーん、ところで日本ハムのチームカラーって何色なんだろう?やはり12球団で私が一番気になるのは巨人のオレンジである。「巨人=オレンジ」となったのはいつから?多分ジャビット(マスコット)が派手なアクションをやりだした頃だろうか。同じジャイアンツでも米国のサンフランシスコジャイアンツのオレンジはもう少し濃いオレンジだ。こちらの方がもっと強そうなのにな、と思うのは私だけではないと思うのだが。 日本サッカーは先のW杯でやや不本意な成績に終わってしまった。しかし日本サッカーにはあのライドブルーと白を基調したチームカラーが脈々と流れている(20年程前に一度赤色のユニホームだったことがあると記憶しているが)。如何に成績が振るわなくともあの青色が変わることは今後もおそらく無いと思っている。是非またあのライトブルーがW杯の舞台で大きく躍動する姿を見たいものだ。
更に、〇〇富士、○○海など力士の名前が出ると、東京農大出身、日大出身、などとすぐ答えられる。変われば変わるものである。しかし「俄か(にわか)ファン」の悲しさ。ある時、取組の前に布のようなものを下に掲げ、土俵の廻りをぐるぐる人が回っている(つまり懸賞金の垂れ幕:正確には懸賞旗)のを見つけ、「あれは何だ」と聞いてきた。懸賞旗といって、1本7万円で応募でき、力士の手取りは1本あたり6万円であることを教えたが、腑に落ちない様子であった。
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