猫は次に起こることを推理していた 猫の心理学 からわかること
・文学作品を読むことで、他人の心をよりよく理解できるようになるのだろうか。こちらは、進化論的というよりは、実際にいま、わたしたちが文学作品を使って、心を読むスキルを上げられるかどうかを問うている。近年、心理学的実験を含め、経験的な研究が行われており、この問いに肯定的に答えるものもみられる。だが、哲学者からは、そうした実験の多くは、不十分な議論と実験結果の解釈に基づいており、文学作品が心の理論の発展に寄与するというつよい主張を支持するにはいたっていないと批判されている。
・それでは物語的理解とはそもそもどのような理解のモードなのか。それは、物語とはそもそも何か、そして、どのような理解のモードなのかを認知科学・心の哲学から考察するといった哲学的・科学的の両方の研究領域にまたがった研究を必要とする。
文学理論、哲学において宣告され続けているものの、しかし、作者の意図、解釈の適切さをめぐる問いはまったく死んではいない。少なくとも、文学の哲学、分析美学において、解釈とはどのようなものか、のみならず、正しい解釈はありうるのか、そして、作者の意図を作品の解釈にどれほど影響させ、作者の意図をどのように理解すべきなのかをめぐってこれまでも、そしてこれからも様々な問いが問われてきたし、問われ続けている。
ROROさんに今後について聞いてみたところ、「ほとんどが一点物となりますが、動物と食べ物をモチーフとしたお部屋に飾っていただく手乗りサイズの立体作品と、これからの季節にぴったりのブローチを制作予定です」と明かしてくれました。
Itoら(2016)は、異なる演技をする実験者二人のうちどちらから報酬をもらうのかを調べました。実験条件には、視覚条件/聴覚条件/視覚+聴覚条件がありました(図1)。その結果、視覚+聴覚条件で自分に注意を向け、さらに自分の名前を呼ぶ実験者のみを、偶然で起こる確率を超えて選好を示すことがわかりました。このことから、ネコも自分に向けられた注意状態を理解している可能性が示唆されました。
本田 秀夫: 発達障害ー生きづらさを抱える少数派の「種族」たちー (SB新書)「種族」という表現が適切かどうかはわかりませんが、「生きづらさを抱える少数派」というのは、発達障害をもつ方たちの状況をかなり的確に表していると思います。私自身は、自閉スペクトラムと注意欠如・多動が重複する人たちのことが解説されているので、これを読んだ次第。実際に相談を承るお子さんでも、自閉スペクトラムと注意欠如・多動が重複していることがよくあります。さらに、最近では、発達性協調運動障害(DCD)が重複すると思われる子どももたくさんいます。発達障害は、主に自閉スペクトラム症(ASD)、ADHD(注意欠如・多動性障害)、学習障害(LD)からなっているとされます。しかし、いずれも、中枢神経系の機能不全や、ネットワークの不全がベースにあるように思われます。もしそうであれば(これらがgenotypeであれば)、その表現型としてASD、ADHD、LD、DCDのいずれか、あるいは、DCDも含めて、混合タイプとなることは、ある意味よく分かります。
・『フランケンシュタイン』を取り上げ、様々な批評理論から、テーマを取り出し批評理論的批評を例示する。そのテーマの切り口の可能性の広さに驚きとともに、文学批評の解釈の多元性に気づくことができる。
【補足】メタ分析(meta-analysis) 同一の研究課題について、独立して行われた研究の結果を統計的手法によって統合する方法をいいます。「メタ分析」の「メタ」は、「メタ認知」などで用いられている「メタ」と同じです。英語の“meta”(接頭辞)には、「より高次のあ水準から何かを示す」という意味があります。したがって、「メタ分析」は、独立して分析された結果をいくつか統合して、分析をしたものをより高次の水準から改めて分析するということになります。
ヒトの非侵襲的研究においては、刺激呈示前に視覚野や聴覚野で活動性の変容が見られるときには、前頭前野を含む前頭葉の多くの部位が活性化することが示されている。またサルの前頭前野を電気刺激すると、視覚関連領野の活動が促進されることも示されている。こうした大脳後部における活動性の変容は、前頭前野からのトップダウン信号top-down signalを受けた結果生じたのではないかと想定される。こうしたトップダウン信号は、課題に関係した刺激の処理を効率化することにより、適切な反応に導くという役割を担っていると考えられる。
そこから熊楠はさまざまな現象−とくに身を飾りたてる化粧・衣装、装身具について、事例を挙げてみせる。たとえば、インドにおいて婦人がその瞼にカジャルという黒い画料を塗って顔を汚すことで視害を防ぐことや、かつて日本人がかぶっていた烏帽子が邪視をさけるために、女陰をかたどったものであったこと等々......である。
・文学作品を読む動機や価値は心の理論から説明できるだろうか。進化論的なアプローチから、はるか昔から物語を語ることによって、わたしたちホモ・サピエンスは他人の心をよりうまく読めるようになり、より適応的になったからは、という仮説が提示されている。ゆえに、物語を求めるのは、それが適応度を高めるためであり、合理的だ、というわけだ。しかし、物語を読むことで適応度が上がる、というのはどれくらいありそうなことなのだろうか、また、それほど劇的な変化は起こりうるのだろうか。また、文学作品を読む動機は、適応度とは関わりなく、むしろ、他人の心を推測する能力の副産物として、推測それじたいの楽しみのために物語があるのではないか、という仮説の候補もある。進化論的なアプローチから、わたしたちが物語を読む意義を説明できるだろうか。
大きく言えば二つの方向がありそうです。ひとつは「だめでしょう!」としかる。という方向です。叱る方の立場からすれば、一番素朴に言えば「腹が立って叱る」わけですが、もうすこしその意味とか効果を考えてみると、それはこんなことになりそうです。
広範的能力は多岐に渡っていますが、このうち主要なものは、流動性知能/推論Gfから、読み書きGrwの10因子です。
熊楠は柳田の質問−巫女である「熊野比丘尼」や「股の権利」について(明治四十四年十月四日付)答える形で、しだいに神と巫女との関係が、動物と巫女との関係にアナライズされることに着目しはじめる。巫女があらゆる動物と性交していたのではなく、神の使いである特定の動物と寝ていた事実(明治四十四年十月十日付)を梃に、「巫祝(ふしゆく)における動物の装をして神に供えし素女を犯す」(明治四十四年十月二日付)という儀式の持つ意味へと少しずつ少しずつ現実のレベルから幻想のレベルへとさかのぼっていく。あるいは、その時、「素女を犯す」という一点に拘泥すれば、共同体で行なわれている現実的な「股の権利」の問題(「当県東牟郡勝浦港は古来はなはだ淫奔の地なり......」明治四十四年十月八日付)へとそれは拡がっていく。
文学の擁護として、文学が何か大切なことを教えてくれるとする主張は、研究者であろうとなかろうと、文学を好んでいるひとの口からしばしば言われる。だが、それを擁護するためには一筋縄ではいかない反論に立ち向かい、説得的な議論と信頼できる証拠を集める必要がある。それはかなりたいへんな仕事だが、しかし、美学的なたいへんさに満ちたわくわくするような挑戦だ。日本でも、わたしを含め数人の美学者がこの問いに関心をもっており、新たな美学者の登場を心待ちにしている。
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