訪れた村で暮らしたいという願望 写したのは 写真でしかない写真
転機は2011年、80歳直前に工学院大学理事長を辞して、基本的に自由になったあとに訪れた。常勤の職を辞して家にいることが多くなると、自然と外との繋がり薄れてくる。知人、友人、それに多くの元学生達がふと気になったとき、安否を確認できる窓口のようなものが欲しい。その趣旨に合うような新しいホームページに変えようと思い立った。
昨日は台北の故宮からのメールで、撮った写真のデータはいつもらえるのかという問い合わせがあり、逆にいつまでに必要なのかと聞いたところ「ASAP」という返事。これはどういう意味なのかとしばし考えて、そうか「出来るだけ早く」という催促なのだろうと推測して、この忙しさはもうしばらく続く事を覚悟しました。
調整をし終えた重いデータをネットで送っている間 、しばらく畳に寝ころんでいると、さまさまな事が頭をよぎります。あの計画はなかなか進んでいかないな、とか、あの仕事の報酬はあまりにも安すぎるんじゃないかな、こんなんでどうやって食べていけというのか、とか、こんなに身体がキツかったらじきに写真は撮れなくなってしまうんじゃないだろうか、とか、あの人には悪い事をしてしまったな、とか、そして自分はこのままたいしたこともできずに死んで行くのだろうか、とか・・・。
ゼロ戦や戦艦ヤマトを設計したのも計算尺だった。材料の長さや厚さを決めるには3桁で十分である。余計な桁数は注意を分散させ、バランス感覚を鈍らせる。近頃は、そのバランス感覚までコンピューターにお任せのようだ。嘆いていても仕方がない。人も時代も変わるのだから。**************2014年1月10-31日***************懐旧シリーズ5:60年前の回転計 研究には実験が欠かせない。実験にはいろいろな測定装置が必要である。私の研究対象はターボ機械、すなわちポンプやタービンのような回転する流体機械である。1954年東大で取り組んだ卒業研究のテーマは渦巻きポンプの性能で、ポンプの回転数を変えながら、吐き出す水の量と圧力上昇の関係を調べた。水量は堰(せき)で、昇圧は水銀が入ったガラスのU字管で計ったが、回転数には写真で示すハスラー回転計を使った。これは後に東芝に合併された芝浦マツダ工業(株)製でマツダ回転計と呼ばれた。回転計を手で持ち、接触子を回転軸の軸端中心に押し当てスタートボタンを押すと、計器の指針が回り始め、止まったところの目盛で毎分回転数(rpm)を読む。要するに接触子と指針の間に1/50の減速歯車が入っており、3秒間だけクラッチオンして指針を回す仕組みになっている。測定精度は明示されていないが、10回くらい計って平均をとると2-3%位の精度は得られたのだろう。頼りないようだが、モーターからエンジンまで回転数はみなこれで計られた。ちなみに現在は、回転軸に取り付けられた歯車の歯数をパルスカウンターで読み取るデジタル回転計が主流である。
ここのところ、10月と11月の個展と来年出版予定の複数の写真集の準備で、少しだけ慌ただしくしています。また、このトピックスでもその都度ご案内させていただきます。
東京から正丸峠越えで車で3時間ほどで行ける秩父盆地は、独特な文化を伝える小世界である。長瀞ライン下りや郷土の祭りなどでこの地を訪れる人は多い。それに加え、あの小さな盆地に34の観音霊場が散在し、遙か昔から秩父巡礼が続いてきた長い歴史がある。先ずは秩父から始めようと、昨年5月、新緑が眩しい秩父盆地に一人旅立った。この時の様子は できごと欄 で伝えたが、札所1番の四萬部寺から始まって、2番の真福寺、3番の常泉寺、4番の金昌寺、5番の語歌堂と次々に車で回った。その夜は巡礼宿の新木鉱泉旅館に一泊して疲れを癒やした。翌日は29番の長泉寺から23番の音楽寺に回り、鐘楼の鐘を鳴らして別れを告げ、帰路についた。今年もやはり5月、その続きをと思って出掛けた。今度は中を抜いて、終盤に近い札所を巡ることにした。初日は念願の三峯神社に参拝した。秩父を代表する古い神社で、関東一のパワースポットでもある。翌日は先ず31番の観音院に行き、296段の厄除けの石段を登って切り立った岩壁を背にする本堂に詣でた。次に33番の菊水寺を巡り、締めは34番の水潜寺で深々と頭を下げた。秩父34観音巡りの結願の寺である。札所29番までは秩父の市街地に集まっているが、それ以降の札所は何れも市街地から遠く離れた山の中に散在している。徒歩で回ったら、この三つの寺さえ2日掛かりの旅になったことだろう。
市川の須和田=写真=では、牛馬に朝は小麦粉の団子、昼はご飯やうどん、かぼちゃとインゲンの煮物などを供え、仏様がご馳走(ちそう)を食べ終わるのを待ちかねた子供達が、馬の鼻、牛の首に縄をつけ庭中をひっぱって遊びまわったという。マコモが田の埋め立てとともに少なくなり、七夕馬を作る人が少なくなったが、いまでも「マコモさえあれば作りたい」という声が聞かれる。
告別式のとき祭壇正面に安置する大きな遺影は、この写真からカットし、頭がまっすぐになるよう修正・拡大したものを使った。まさに思い出の一枚となった。
告別式のとき祭壇正面に安置する大きな遺影は、この写真からカットし、頭がまっすぐになるよう修正・拡大したものを使った。まさに思い出の一枚となった。************2017年12月************思い出の一枚シリーズ 6:歩け歩け大会 工学院大学では、毎年5月中旬に学生団体が主催して「歩け歩け大会」を開催している。日曜日の深夜零時、号砲とともに八王子キャンパスを出発し、甲州街道に沿って42.9キロの道のりを新宿キャンパスに向かって歩く。学生が主体だが、足に自信がある教職員も加わって四百人ほどが参加する。歩道を交通信号に従って歩くので、赤信号で待たされたり、歩道橋を渡ったり、コンビニに立ち寄ったりと、時間を競う競技とは違い親睦と連帯を深める絶好の機会である。
1960年代後半に入ると電子計算機は大学の大型計算センターなどで利用者が徐々に増え始めた。一方個人利用の計算機、今でいうパソコンの普及は80年代に入ってからになった。70年代後半から4ビット機が出始め、8ビット機はNECのPC-8001(79年発売)、シャープのMZ-80B(81年)、富士通のFM-7、タンディのTRS-80などが競い合った。私の場合、発売早々にMZ-80Bを購入し、これが自宅に置くパソコン1号となった。ちょうど50才になった頃で、マイカー1号と同様に、思い出と懐かしさの宝庫である。MZは写真のようにキーボード、ディスプレイ、カセットデータレコーダーが一体になっており、分離型のPCやFMに比べてコンパクトにまとまっていた。スペックを見て分かるように、いまのパソコンに比べて隔世の感がある。言語はBASICが主体で、入力すると即インタープリター働いて作業が進んだ。動かしながらバグを取ることができ、入門者には使い勝手抜群だった。時間を食うところだけを機械語で置換すると、目を見張るように早くなった。英語の論文書きに使うため、ワープロソフトを自作して、IBMのボール型電動タイプライターで出力するところまで仕上げ、重宝した。MZの戦果を書き始めるとキリがない。昔書いた「カーキチパソキチ」という回想録に任せることにしよう。
写真が貴重だった時代は、一枚一枚アルバムに貼って保管された。家内がアルバム作りに熱心だったせいもあって、家には120冊ほどのアルバムが残されており、書棚一つがアルバム専用になっている。すべてのアルバムに、思い出が詰まっている。しかしそのアルバムも、2007年版が最後になっている。それから十数年経った。
調布市の北端に位置する都立神代植物公園は、家から比較的近いこともあり、もう40年以上も折に触れ家族ぐるみで訪れてきた。公園の南に隣接して深大寺があり、お寺参りを兼ねていくこともあった。シニアの入園料は250円、季節ごとの木や花を楽しみながら自然と足が進むので、午後のお散歩にはぴったりの行き先である。
電気柵を出てしばらく走ると、明け方の狩りで獲物を仕留めた3頭の雌ライオンに出くわした。道のすぐ脇、手の届くような距離で血まみれになって肉を貪る姿は、まさに弱肉強食、生きることの極限を見せつけられる気がした。冒頭の写真は、ツアー出発前と、衝撃のシーンのスナップである。
対になっている「栗図」を見てもわかるように決して上手な絵ではありません。しかし確実に「その時にその場所にある」六個の柿それ自体が発している波動とゆらぎを写し取っている。
あのときコロッケを頼まなかったら、予定通り帰校して冒頭写真の東幼観音に見守られる身になっていたかも知れない。不思議な運命に導かれながら、私はそれから73年の歳月を生き続けている。
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